「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」人間の絆と限りない可能性を描いた、喪失と再生の物語
¥1,100 (税込)
三宅とん
四六判・146頁(ソフトカバー)
ISBN 978-4-434-35883-8
2025年5月発行
スクランブル交差点を、もはや老人とも言える痩身の大男が、スーツ姿で左手にビジネスバッグを提げ右足をわずかに引きずるようにしながら、漂うように歩いていた。
男を取り囲む人々の大群は、皆一様に前かがみにまるで力ない兵隊の行進の様だった。
男は行きつけの珈琲専門店の前で立ち止まると、それまでの憂鬱な面を努めて上げて店の扉を勢い良く開けた。男の目の前にいつものアイスコーヒーがそっと置かれた。
じきに男の目から精気が失せていった。
男の回想。
青年のころ稀代の天才役者として存在感を放っていたが、劇団と言う集団に馴染めず劇団の幹部達から疎まれていたが、「先生」と言われていた老人だけは男の類まれな才能と、素直で優しい性格を見抜いていた。
幹部達は自己保身の塊で、「先生」は男達に大人としての矜持を厳しく諭した。
男は交通事故で右足を痛め有望な将来を喪失していたのだった。その挫折感が男を苦しめ苛んでいた。
男には押しかけ女房の妻と三十歳になる一人娘がいた。しかし妻は聡明で大きな母性を持ったとても男には太刀打ちできる女性ではなかったし、娘は端正な面立ちだが知的障碍児で自己表現をほとんど出来ずにいた。そういう現実も男が過去から逃れることが出来ない大きな喪失感となっていた。
物語は男の過去と現在が、男とかかわる様々な人間達と絡み合いながら交錯して進行してゆく。
ある日のこと、男の行きつけの珈琲専門店で若く美しいが、右手首に数か所のリストカットの跡がある青磁の様な面立ちの疲れ切った女と出会い、ベッドを共にする仲になっていったが、女は五年ほど前から逆行性健忘症にかかっていて、自分のアイデンティティーを完全に喪失していた。
しかもスカウトされるまま、風俗店に勤務していることが分かった。男は強い衝撃を受けたが、そんな女に憐れみとつかの間の恋と、女の病を何とか治したいという優しさからか、家族と別れ現実からの逃避行に走った。
やがて男は女の過去を探るような行動にでた。その結果、女が悪い男に引っ掛かり東京に連れてこられ、女の子をもうけたが、悪のDVで子供を死なせた事が分かった。女はそのショックで何度も自死を図ったが死にきれなかったのだ。男は自分の会社に若い女を入社させ自らは退社する事を会社の社長に願い出て女と暮らして行くことを決めた。
しかしある朝、男の不用意な一言で女から別離を切り出されることとなった。
男はまたあてもなく漂い始め、追いつめられるようにとあるビルの屋上の縁に立ち、生と死のはざまで、映画のコマ送りのように男の様々な過去が蘇ってきた。
その時、思いもかけぬ見知らぬ男から声を掛けられたのだった……。
三宅とん(みやけ・とん)
青山学院大学中退。色々あって、日本テレビの刑事ドラマ「太陽にほえろ!」を企画した脚本家小川英氏に師事。氏と共著で上記番組の脚本を数作書き残し、筆を置く。その中の一作「ヒーローになれなかった刑事」は石原良純さんの俳優デビュー作。
後に縁故あり自動車空調部品会社の営業室長として勤務し、六十三歳で退社。七十五歳の現在までにエトセトラ。